何ごともそうですが純粋に楽しめているかどうかは何よりも1番大事なこと。
そこを出発点と考えると農業が自分に向いてるかどうかは重要なポイントです。
僕も就農しようと決意するまでに幾度となく援農というボランティアを通してプロの現場を体験しました。
やりたいな、やろうかな。と考えてる人はとにかくまずやってみるのがお勧めです。
自分の無理なく通える範囲でプロの農家さんを探して訪ねてみるのもありですね。
そこから何かが見えてくるはずです。
それでは前回の投稿、僕がファーマーを志す理由①の続きを書いてみたいと思います。
僕がファーマーを志す理由②
今年の2月末に右も左も分からないままお世話になっている地主さんに耕運機をお借りしてジャガイモを植えたのが始まりでした。
自分達が食べる為だけの目的だったのであえて農薬は使用しませんでしたが、牛糞などの有機肥料と袋に入った化成肥料を購入しては教わった通りに施肥したり、追肥したりと何も分からないまま純粋に畑を楽しんでいました。
好きこそ物の上手なれという言葉通り自然と知識も身について行きます。そこでようやく自分達がやっている農法が農薬や化成肥料を用いて生産する慣行農法だと知りました。
慣行とは「古くから慣わしとして行っている事」という意味です。
農業に限らずですが歴史には必ず時代背景というものがあります。慣行栽培の推進の背景には戦後の食糧難という問題を乗り越える為の先代の知恵や努力があった事が伺えるのです。
その努力の向こう側にようやく高度成長時代の入り口が見えてくる訳です。
しかしその頃になると農業政策は次第に大幅に収量を上げる為の手段として食糧増産の路線を進みました。
それに伴い農薬被害や土壌汚染が問題視され1970年代に有機農業運動が広まるきっかけとなるのです。
さて、
ざっくりとした説明ですがまずお伝えしたいのは農法には善いも悪いもないという事です。
こういったことを知ってもらいたくて時代背景を見ながら歴史を振り返りました。
それでは現代はどうでしょう。日本は今もまだ食糧難なのでしょうか?
農薬にいたっても安全性を追求している時代です。輸入に頼らず国内の自給率を上げるとなればまた収量を上げる必要があるのかもしれません。
僕ら生産を試みようとする者としては農法の善悪を問うのではなく先代達の尽力への感謝という土俵の上に立ち、あえて新規就農者と呼ばれる僕らが成せる現代の役割を考える必要があるのではないかと思ったのです。
それが僕がファーマーを志す最たる理由です。
量より質の時代の農業
それでは本当の豊かさとは何でしょう。食べ物や物で溢れていることでしょうか?
確かにそれも豊かさのひとつだと思います。
しかしこの時代に僕ら新規就農者が取り組むべき課題は量ではなく質の農業なのではないか?
そう考えるところから始めようと思います。
僕が土に触れて感じた豊かさの源とは種を蒔いてから実りをいただくまでの過程で養われる自然への感謝の気持ちです。
降りそそぐ太陽の光と雨、土を肥沃にする草や虫達、作物を育み養う土壌への感謝、そして見事に咲き誇る実りの喜び。
加えてもう一つ忘れてはならない事があります。それは僕のような新参者にも農地を引き継がせてくれる先代農家さん達への感謝です。
それら全ての感謝を思い出すのが僕ら新規就農者の役目なのかなと思いました。
ある農法を否定して自分の農法を正当化するのをやめて僕らは常に平和を基準に物事を選択しなければならないなとも思います。
日本では弥生時代の稲作農耕から人々の争いが始まり貧富や格差社会が生まれたと言われています。
そして世界は今も争うことをやめません。
しかし縄文時代の人々の暮らしは1万2千年以上も平和に築きあげられた貴重な文明なのです。
そのルーツこそが僕ら日本人の思い出すべき真実なのではないかな?そう思いながら僕は農業の道を歩んでいます。
農業が争いを生みました。であれば失った平和を取り戻すのは政治でもなく農業なのかもしれません。
それがこの時代の地に足をつける新規就農者の努めであり、量より質の農業へとシフトする価値ある運動だと僕は少しだけ強く信じています。
では質とはなんでしょうか。僕の考えるクオリティーとはバランスです。
それぞれが自由に楽しみながらバランスの良い生き方を探してみるのです。
縄文のマインドとは自然との共生にあるとわかっています。それは感謝の心でもあると言えるのではないでしょうか。
魂を揺さぶるような民族。日本人には世界を平和にする血が流れていて今こそその血を呼び覚ますときだと思ったのです。
僕はそれを畑から学び少しづつ自分の農業スタイルへと昇華する人生を一生懸命に楽しもうと思っています。
結果楽しいが1番です。
同じ志しの方達の参考になれば幸いです。